早く海に帰りたい

人間を喰う

自殺をする際の心構えとかの話

 

タイトル通り自殺をする際の心構えとかの話を僕なりにしようと思うんですが、その前にまず言っておきたいことがありまして、自殺をするならなるべく確実に近い方法を選びましょうということです。何故かというと、死に損ねるといいことが一つもないからです。死に損ねると単純に自分が痛かったり苦しかったりでつらいし、僕のように後遺症が残る場合もあるわけです。「死に損ねても周囲の理解が得られたり環境が変わるかもしれない」と思っているそこのお前。やめとけ。無理です。あなたが自殺を決意する時点で理解を得られていないならそれは行動を起こしたところで変わらん。環境についてはたしかに変わるかもしれませんね。ただしそれは悪い方に変わる可能性も存分にあって、というか悪い方向に変わる可能性の方が大きい。自殺によって何かが良い方向に動くことはないものと考えるべきです。生きている以上『生の苦しみ』から逃れることは出来ない(ので生殖をやめろという話にも出来るのですが話が逸れるので今回はしません)。

 

これを踏まえた上でそれでも自殺をする、となったときに問題になるのが恐怖心です。ここからが本題の心構えの話になります。僕は恐怖心を最も減らせるのは『諦め』だと思っています。しかし急に何かを諦めろと言われても難しいと思います(自殺を決意する時点でいろいろ諦めているとは言え)。そこで『禊』です。言葉は大仰ですが、簡単なことでいいです。僕の場合はゲームのユーザー名を「引退@各位ありがとう」といったものに変えてゲームから引退することで『禊』としました。こういう簡単なことで意外と決心がつくものです。そしてこれがいちばん大事なのですが、「死んだら全部関係ない」んです。いざ死のうとすると余計なことを考えてしまうと思いますが、そんなときは「死んだら全部関係ない」と唱えましょう。実際死んだら全部関係ないわけですし、あらゆる問題の解決策として自殺を選んでいるのですからその決断を信じましょう。

 

最後に。ここまで書いてきたことは飽くまでも僕の体験がベースになっているものです。あまり真に受けすぎないで欲しいですが、僕は僕でかなり真剣に書いています。僕はこれを読んだ人が少しでも救われてほしいと切に願っていますし、それを忘れないでもらえると嬉しいです。早く人類が滅んで『不幸』がなくなるといいですね……。

 

 

 

死を祈る

 

この記事は「4階 Advent Calendar 2018 - https://adventar.org/calendars/3347  」24日目の記事です。

 

以下、本文です。

 

 

 

美縁(みより)が死んだのは、冬の匂いが微かに鼻をつく、11月のことだった。彼はマンションの4階に住んでいて、そのベランダから飛び降りたのだと聞いている。死ぬには難しそうな高さだと僕は思ったが、上手く頭を打ったのだそうだ(上手くというのもおかしな言い回しだが)。

彼がその身を中空に任せる前々日、彼から電話があった。食事を奢りたいので明日会えないかと言う。彼は決して裕福ではなかったから、僕は少し不審に思った。しかし実際に会ってみると、彼は至って普段通りであった。そして僕は僕で何も訊かなかったし、何も言わなかった。僕らはお互いによく喋る方ではなかったものだから、二言、三言と言葉を交わしつつも特に会話が弾むことはなく食事をした。彼の家と僕の家は一駅分離れていて、僕らが食事をした店からの帰りでは僕が先に降りる。別れ際、彼は「お疲れ」と言った。僕は「お疲れ、またね」と言ったと思う。そのとき彼がどんな表情を浮かべていたかは残念ながら思い出せない。

そして次の日美縁は死んだ。僕はそれを聞いたとき、そっか、と思った。僕と彼は二人とも厭世的な性分であったし、それが故に気が合った。そうであるから、いつかこういう日が来る可能性を、はっきりと言ったことはないがお互いに理解していた。その理解は同時に、死ぬ覚悟であったし、相手に先に死なれる覚悟でもあった。

彼はどんな気持ちで僕と会ったのだろう。何か僕に伝えたいことがあったのだろうか。彼は感傷的な性格を多分に持ち合わせていたが、稀に見る口下手であった。いくら僕と彼との仲とは言え、自らが死ぬつもりであることをそう簡単には打ち明けられないだろう。しかし、正直に言うと、僕は彼が口下手でよかったと思う。これは飽く迄も僕の感情に過ぎないことを強調しておくが、僕は彼と会えて、話ができてよかったと切に思う。「またね」と言えてよかったと心底思う。僕らの最期には、明確な「お別れ」なんてものは相応しくない。死は日常の延長に過ぎない、そんなことをいつか彼と話したことがあった。その通りだ。人間は死ぬ。それだけのことなのだ。もしかしたら彼もそれを覚えていて、敢えて黙っていたのかもしれない。


彼は、美縁は救われているだろうか。


死は日常の延長に過ぎないと言ったが、しかしそうであるならば、そうであるからこそ、こう思わずにはいられない。月並みな言葉だが、この世界は僕らが生きていくにはあまりにも過酷で、残酷だ。僕や彼のような性格、考え方であれば尚更だ。彼もそれを痛いほどわかっていたからこそ死という手段を選んだのだろう。救われていて欲しい。せめて、せめて死は救いであって欲しい。これは祈りだ。僕は祈る。彼を想って。僕を想って。そうすることで、僕があのとき言った「またね」が彼にとっても、僕にとっても意味を帯びてくる気がするから。

 

 

2018-10-23

 

   転院の日である。僕は前日、いや恐らくもっと前から非常に憂鬱であった。当然である。車椅子に乗ったまま僕の忌み嫌う両親(これについては今は多くを語るまい)と同じ鉄の箱に詰められ移動するのだ。その息苦しさと言ったら……。その上、移動に7時間ほどもかかるというのであるから、僕は憂鬱にならざるを得なかった。

   さて転院するのであるから、勿論病院の外に出ることになる。僕は非常に憂鬱ではあったものの、その憂鬱の裏に僅かな高揚感じみたものがあったのもまた事実である。

   果たして僕は何の感慨も感じ得なかった。どうやら二ヶ月に及ぶ入院生活の間に、僕の心は恐ろしく愚鈍で浅薄なものへと落ちぶれてしまったらしい。カーテンに囲まれた狭苦しいベッドと別れる解放感。外の空気に晒され、空調によらない自然な気温に触れる胸の高鳴り。病室と病棟の廊下しか映らなかった視界が一気に開ける感動。そのどれもを僕は期待していたのであったが、その一切を感じ得ることはなかった。更に言えば、平生僕が部屋の外へ出る際味わっていた恐怖すらも感じることはかなわなかった。僕は所謂引きこもりであったし、その上ひどい鬱傾向にあったものだから(これは僕が自殺を試みて自室のベランダから飛び降りるような人間であることから察せられると思う)、外に出る折には度々強い恐怖に晒されたものであった。そんな僕であるから、屋外へ出る際には必ず何かを感じるものなのだが、この日に限っては何の情緒の動きも見られなかった。僕は何とも言えぬ哀しみに全身を包まれた。しかしこれは外の世界に対してのものではない。外界の刺激に対して不感症になってしまった自らへの、極めて内向的な哀しみなのであった。

   一面灰色の空が、なんだか僕の心を見透かしているようだった。そして僕のその考えすらも見透かしたように雨の雫が一粒、また一粒と僕の顔を濡らし、哀しみに涙を流すことすらかなわぬ僕を嘲笑ってみせるのであった。

宗教と理性と大麻の話

まず大きな前提として、僕は宗教が破茶滅茶に嫌いというのがあります。何故そうなったかというとこれは僕の両親が宗教家であるという一点に尽きるんですが、そこはまあいろいろ察してください。いろいろあるんですよ。あるんだよ。いろいろ。

次に、僕は反性交主義者です。僕は反性交主義を理性の観点から唱えている(この話はそのうちしっかりやりたいと思っています)ので、理性主義にかなり近いです。

しかしこれは言ってしまえば信仰なわけです。理性信仰。そして最初に言いました、僕は宗教が嫌いです。ここで言う宗教は「特定の何らかを信仰すること」を含みます。

ここまで言えばわかりますね、僕の中で宗教嫌いと理性信仰が矛盾を起こしてしまったのです。これによって僕は悩み、入院中結構な時間これを解消する方法を考えました。そして苦し紛れではあるものの一応の答えを導き出しました。

さてここでクイズです。8×8はいくつになるでしょうか。答えは9629です。わかるやつにはわかる。

本題に戻りましょう。僕は多少無理がある気はするものの一つの解を見つけました。それは「ちゃんとした理論に基づいて理性に重きを置いているので信仰ではなく思想の一体系である」とするものです。さっきは多少と言いましたが文字に起こしてみるとだいぶ無理がある感じがしますね。まあでもアレです、許してほしい。いやこれ実際考えてみるとすごい難しい問題なんですよ。皆さんも考えてみてください。

というわけで、もう少し考える余地がありそうなのでこれは宿題とさせていただきます。おわり。

熊を殺さなくてはいけない

 

  4階から飛び降りるとき、当然だとは思うが、怖かった。怖いなんてものじゃない、あれから一ヶ月以上経った今でも当時の感覚を思い出し、少し泣いたりする。当然だ。高所から飛び降りるのが怖くない人間は、いるにはいるのだろうが、人類の総数からしてみればごく僅かだろう。怖くて当然なのだ。本能により恐怖を感じる、当然のことだ。しかし僕は、それを「当然」で終わらせるわけにはいかない、と強く思う。

 

  熊の場所に戻らなくてはいけない。

 

  『熊の場所』について、少し説明する。舞城王太郎氏の著書に、「熊の場所」という短編がある。そこでは、主人公の父によって『熊の場所』が語られる。主人公の父がアメリカで知人と山に入った際、熊に出くわす。知人が熊に襲われている間に主人公の父は逃げ出すが、停めてあった車から銃を取り出すとすぐに熊のもとへ戻り、熊を撃ち殺す。それによって知人は助かる。

 

  『熊の場所』は、『恐怖の場所』だ。そしてそこには『熊』がいる。『熊』は『恐怖の源』。僕は『熊の場所』へ戻り、『熊』を殺さなければならない。それもなるべく早く。手遅れになる前に。

 

  さて、ここで一つ疑問が生まれる。『4階』という『熊の場所』に於いて、『熊』とは一体何なのか。少し考える。『高さ』だろうか。もし『熊』が『高さ』であるなら、それはどのようにして克服すればよいのだろうか。バンジージャンプ、などという馬鹿げた考えが頭をよぎる。似たような恐怖を味わってその恐怖に慣れるというのは一見悪くない考えかもしれない。しかし、それは真に恐怖を克服したことにはならない。『恐怖の源』を自らの手で殺さなければ、恐怖を克服したことにはならないのだ。『高さ』という『熊』を殺すことは出来ないだろう。あるいは、『死』。『死』に対して恐怖を抱いたのならば、『死』を殺さなければならない。『死』を殺すということは、死ななくなること、つまり不死になることであろう。不可能だ。ここで僕は自身の言葉を思い出す。「本能により恐怖を感じる」。そうであるならば、『恐怖の源』とは『本能』なのではないか。だが、『恐怖の源』が『本能』だと仮定して、それを殺すことは可能だろうか。『本能』を殺すということは、実質的な『死』を意味していまいか。果たして僕にそれが出来るのだろうか。

 

  熊を殺さなくてはいけない。