早く海に帰りたい

人間を喰う

死を祈る

 

この記事は「4階 Advent Calendar 2018 - https://adventar.org/calendars/3347  」24日目の記事です。

 

以下、本文です。

 

 

 

美縁(みより)が死んだのは、冬の匂いが微かに鼻をつく、11月のことだった。彼はマンションの4階に住んでいて、そのベランダから飛び降りたのだと聞いている。死ぬには難しそうな高さだと僕は思ったが、上手く頭を打ったのだそうだ(上手くというのもおかしな言い回しだが)。

彼がその身を中空に任せる前々日、彼から電話があった。食事を奢りたいので明日会えないかと言う。彼は決して裕福ではなかったから、僕は少し不審に思った。しかし実際に会ってみると、彼は至って普段通りであった。そして僕は僕で何も訊かなかったし、何も言わなかった。僕らはお互いによく喋る方ではなかったものだから、二言、三言と言葉を交わしつつも特に会話が弾むことはなく食事をした。彼の家と僕の家は一駅分離れていて、僕らが食事をした店からの帰りでは僕が先に降りる。別れ際、彼は「お疲れ」と言った。僕は「お疲れ、またね」と言ったと思う。そのとき彼がどんな表情を浮かべていたかは残念ながら思い出せない。

そして次の日美縁は死んだ。僕はそれを聞いたとき、そっか、と思った。僕と彼は二人とも厭世的な性分であったし、それが故に気が合った。そうであるから、いつかこういう日が来る可能性を、はっきりと言ったことはないがお互いに理解していた。その理解は同時に、死ぬ覚悟であったし、相手に先に死なれる覚悟でもあった。

彼はどんな気持ちで僕と会ったのだろう。何か僕に伝えたいことがあったのだろうか。彼は感傷的な性格を多分に持ち合わせていたが、稀に見る口下手であった。いくら僕と彼との仲とは言え、自らが死ぬつもりであることをそう簡単には打ち明けられないだろう。しかし、正直に言うと、僕は彼が口下手でよかったと思う。これは飽く迄も僕の感情に過ぎないことを強調しておくが、僕は彼と会えて、話ができてよかったと切に思う。「またね」と言えてよかったと心底思う。僕らの最期には、明確な「お別れ」なんてものは相応しくない。死は日常の延長に過ぎない、そんなことをいつか彼と話したことがあった。その通りだ。人間は死ぬ。それだけのことなのだ。もしかしたら彼もそれを覚えていて、敢えて黙っていたのかもしれない。


彼は、美縁は救われているだろうか。


死は日常の延長に過ぎないと言ったが、しかしそうであるならば、そうであるからこそ、こう思わずにはいられない。月並みな言葉だが、この世界は僕らが生きていくにはあまりにも過酷で、残酷だ。僕や彼のような性格、考え方であれば尚更だ。彼もそれを痛いほどわかっていたからこそ死という手段を選んだのだろう。救われていて欲しい。せめて、せめて死は救いであって欲しい。これは祈りだ。僕は祈る。彼を想って。僕を想って。そうすることで、僕があのとき言った「またね」が彼にとっても、僕にとっても意味を帯びてくる気がするから。