早く海に帰りたい

人間を喰う

熊を殺さなくてはいけない

 

  4階から飛び降りるとき、当然だとは思うが、怖かった。怖いなんてものじゃない、あれから一ヶ月以上経った今でも当時の感覚を思い出し、少し泣いたりする。当然だ。高所から飛び降りるのが怖くない人間は、いるにはいるのだろうが、人類の総数からしてみればごく僅かだろう。怖くて当然なのだ。本能により恐怖を感じる、当然のことだ。しかし僕は、それを「当然」で終わらせるわけにはいかない、と強く思う。

 

  熊の場所に戻らなくてはいけない。

 

  『熊の場所』について、少し説明する。舞城王太郎氏の著書に、「熊の場所」という短編がある。そこでは、主人公の父によって『熊の場所』が語られる。主人公の父がアメリカで知人と山に入った際、熊に出くわす。知人が熊に襲われている間に主人公の父は逃げ出すが、停めてあった車から銃を取り出すとすぐに熊のもとへ戻り、熊を撃ち殺す。それによって知人は助かる。

 

  『熊の場所』は、『恐怖の場所』だ。そしてそこには『熊』がいる。『熊』は『恐怖の源』。僕は『熊の場所』へ戻り、『熊』を殺さなければならない。それもなるべく早く。手遅れになる前に。

 

  さて、ここで一つ疑問が生まれる。『4階』という『熊の場所』に於いて、『熊』とは一体何なのか。少し考える。『高さ』だろうか。もし『熊』が『高さ』であるなら、それはどのようにして克服すればよいのだろうか。バンジージャンプ、などという馬鹿げた考えが頭をよぎる。似たような恐怖を味わってその恐怖に慣れるというのは一見悪くない考えかもしれない。しかし、それは真に恐怖を克服したことにはならない。『恐怖の源』を自らの手で殺さなければ、恐怖を克服したことにはならないのだ。『高さ』という『熊』を殺すことは出来ないだろう。あるいは、『死』。『死』に対して恐怖を抱いたのならば、『死』を殺さなければならない。『死』を殺すということは、死ななくなること、つまり不死になることであろう。不可能だ。ここで僕は自身の言葉を思い出す。「本能により恐怖を感じる」。そうであるならば、『恐怖の源』とは『本能』なのではないか。だが、『恐怖の源』が『本能』だと仮定して、それを殺すことは可能だろうか。『本能』を殺すということは、実質的な『死』を意味していまいか。果たして僕にそれが出来るのだろうか。

 

  熊を殺さなくてはいけない。